昭和46年06月23日 朝の御理解



 御理解 第20節
 「此方が天地金乃神よりおかげを受けておる事を話にして聞かすのぞ。疑うて聞かぬ者は是非におよばず。可愛いものじゃ。また時を待っておかげを受けるがよし。銘めいに子を持って合点せよ。親の言う事を聞かぬ子が一番つまらぬ。言う事を聞かぬ子は、親もしかたがあるまいが。」

 信心の事を言うても、信心のなんのと言うて、神も仏もあるものかと頭から、いわゆる、てんからそれを疑うて掛かろうとしない、そう云う氏子または子供、神様でも親でも、自分のそれが子供であっても、右にしたが良い、左にしたが良いと思っても、それをそれこそ左右にして、言う事を聞かぬならばです、親でも仕方あるまいがと、それでもやはり親神様であり親であるから、どうぞ本心に立ち帰って、親の言う事を聞いてくれる日を祈り願っておる。
 神様がやはりそう云う思いで可愛いものじゃと、愛の心を以て後からそれを祈願しておって下さると言った様な感じ。今日は私は、此処で大発見をした感じがするのですけどね、この二十節と言うのは、その様に親の言う事を聞かぬとか、又は信心の事を言うても、神も仏もあるものかと疑うて聞かぬ者、言うならば信心を頂こうとしない、所謂無信心ものを対照としての私は御理解だと思うておったら、そうじゃないですね。
 皆さんどう思われますか、是はね信心を頂いておる、そしておかげを頂きたいと思うておる、もう長年信心もしておる、御教えも有り難いと言うて拝聴しておる、私はそう云う氏子に対して、このお教えは下さったものだと今日改めて思うておる。してみると是れは本気でひとつ、是れは信心にならなければいけないなと、今日は改めて思うので御座います。此方が天地金乃神よりおかげを受けて居る事を話して聞かすのぞとこう仰しゃる。もうその事を疑わずに信じて聞いたら、それがおかげになるのである。
 けれども成程道理だ、尤もだと言うて聞きながらね、それを私は本当に信じる事が出来ずに、もう言うならば疑うてかかって、それはそうだけれどもと言って、けれどもをつけて、それを行じようとしない信者氏子、信者、私はもうひとかどの信者と思うておる、氏子に対する、ここはこうすればおかげになるとはっきり、金光大神としては分かっておられるんだから、そう教えて下さるんだけども、それを右左にして聞こうとしない。実に可愛い者じゃである。
 此処まで来とりながら、神様に接近しておりながら、此処まで神様の手に縋る所まで来ておりながら、その手をふり払う様にして言う事を聞かん。それこそ親でも言う事を聞かぬ子は親でもあるまいがと、と言う事になるのです。だから此処で信心をさせて頂いておるもの、お互い私どもです、私どもに本当におかげを下さろうとする、天地金乃神様からおかげを受けて、金光大神その方がおかげを受けておられる、その受けておられるおかげを私どもに、お話にして下さるのだけれどもその話を聞こうとしない。
 聞こうとしないと言うか、それを本気で行じようとしない。それこそ神が言う事は途中で落として終うと言うこと。家に帰ったら又もとの木阿弥、それこそ可愛いものじゃであろうと思う。惜しい事じゃでもあろうと思う。ね。昨日私あの、皆さんも、もうお読みになったであろうが玄潮ね、皆さん買い求めておられるでしょう。玄潮の中にAさんの来訪と言う所に、生活の焦点と云う所に、岡という先生が書いとられる記事を読ませて頂いたのですけれどね。
 教会にある町の町会議員を何回も勤めたと云う人がお参りして来て、しみじみまあ私どもの事を、政治家と言うのには余りにも小さい政治家でありますけれども、もう三回も村会議員から町会議員、いわゆる町がこう合併をして、町になったと言う町らしいのです。そして何回も町会議員にも当選して、此の度は県会議員でも出ろうかと言う様な願いを持っており、又そういう噂の方らしいのです。
 そしていわゆる政治家の悲哀と言うか、本当に哀れだと本当に私どもが一番哀れだとしみじみ話される。どうしてですかあなた方の様に言うなら名誉職を受けて、人の出来ん事をして居られると言う事は。合点が行かぬ訳ですから、どうしてですかと言うて先生が尋ねられるとですね、先日町で何かまあ運動会の様な事でしょうね、がありましたと、招待を受けましたから参りましたら、いわゆる町の有志の方達がずらっと席がとってありまして、その町会議員である私どもの席もちゃんと取って御座いました。
 お茶は出る、おしぼりまで出ると言う行き届いたサービスを受けながらです、まあ運動会を運動会かな、まあ運動会なら運動会を見よった。所がその天幕張りの向こうの方は上敷きで一般の人が見物する所であるらしい。其処にですねつい先日まで、此処の村長をして居られた方、町と合併をする時に町長選にも出られたけれども、それこそ沢山の金を使い、それこそ田地田畑まで売り払い町長選挙に立候補された。
 もう七十二才になられるお爺さん、そのお爺さんが、そのござ席の上でいわば座って居られるのをこっちの方から眺めさせて頂いて、しみじみ政治家の悲哀を感じましたと言うて居られた。私どもはこうやって町会議員と言うとるから、皆がそれこそ頭をぴょこぴょこ下げて下さる、まあ町を歩くでも或る意味合いでは、それこそ肩で風をきる様に歩いておられますけれども。
 もし私が今度、いうなら今度町会議員又は県議なら県議に当選しそこのうて、私が一町民に帰ったときには、誰も私を相手にしてくれる者はありますまいと思うたと思うたと云う話が書いてある。皆さん読まれたですかね。いわゆる政治家の悲哀と言う訳である。ついこの頃まではお爺さん町長さんで、それこそ肩で風切る様に町を歩いて居られた、皆が頭を丁重に下げて町長さん。
 町長さんと言うたけれども、もうそれは、同じ町の何か見物に来ておられけれども、田地田畑売り払うてしもうて、今はその町はずれにささやかな家を建てて、ささやかな生活をして居られると言う。その町長さんを見てから、あれが私ども政治家の末路であろうかと思うたら、本当に哀れな事だと感じましたと言うのである。お互いがねまだ力が自分にあると思うておる。
 まだ若さがあると思っておる、お金も未だあると思うておる、成程まあ親切を出して、実は此処の或る御信者さんの場合でもそうでしたが、それこそ随分と町の為にも、又は難儀な人の為にも、自腹切ってまあ親切にした積もりであったが、いよいよ自分自身がどうにも出来ない処まで行った所が、誰も見向きもしない。おいお前、俺があの様にしてやったじゃないかと言った処で仕方がない。
 それこそ落ぶれて袖に涙のかかるとき、人の心の奥ぞ知らるる。始めて、落ぶれてしもうてからです、落ぶれてしもうてから、それを感じたのではもう遅いて、私ども信心させて頂く者でもそうです、ただ我情我欲の事の為の信心が一生続けられた所でです、つまらん話であります。まだ自分に才覚があると思う、自分に未だお金がある、力があると思う、まだ自分には若さがあると思うておる。
 これも或る方が話してある。まだいわば力もあればお金もある、人の家に難儀な問題が起こって来た、処がもうその人の所に、もう皆がお見舞いの様にして、心配そうな顔して、さあどうしましょうか、と言うて集まって来たとこう言うのである。それを或る人が眺めてです、ああ此の人達も此処には未だお金がある、力があるからと言う様なものがあるから、此の人どんが皆お付き合いで、さあ夜も寝らんごとして、本当に自分も一緒に心配してあげてる様にして来ておるけれども。
 此の人が本当にある意味での、いわば財なら、財を全く財をなくした時には、恐らく此の人達も全部また離れて行く人であろうと思うたら、寂しい思いがしたと言うて、昨日此処でお届けされておりました。まだ力やら財がある間、はあまだ自分も皆からこんなに親切にして貰えれると、言う様な気もするけれども、無いものが無くなって来ると、言うならば私どもがです、あっても段々年を取って来てです、働きが出来ない様になって来るとです、もう子供ですら、厄介者と云わんでも、厄介もの扱いにするじゃないか。
 いわゆる世の無情を感じると、それこそ、その町会議員さんじゃないけれども政治家の悲哀です。本当に信心を、真の信心を頂いて、自分の心の中に本当の喜びを開かせて頂いておかなければです、そう言う信心させて頂くものでも、悲哀を感じなければならない。ああ、あの時に親先生の言うた通りにしとけば良かったと言うても、もう体が動かん、私は今日の御理解はそう言う風に此処の所は感じるのですけどね。 
 是れはもう今迄は本当に信心の無いもの、言うなら神も仏もあるものかと言うて、神の事、信心の事を話しても聞こうとしない人の為に、この御理解はあると云う様に思うておった。そうじゃない、これは信心を頂いとる者、金光様の御信心頂いとる者、いや毎日毎日こうやって朝参りさせて頂いておるもの自身が、深く反省しなければならない。金光大神がおかげを受けた事を、天地金乃神から受けておられる事を、話しにして聞かすのぞとこう仰しゃる。
 その話しを私共がどの様な受け方をしておるかと言う事、是れは私を含めてなのです。だから、もっともっと厳密に私は、金光大神が教えて下さる事を聞かなければならない。又は本気でそれを行じなければならないと、今日改めて此処の所を感じさせて頂くので御座います。まだね私ども少し力があるかの様にね、未だあるものがあると思う、あるものがある時は、それこそお付き合いで、どげんしょんなさるですか、それはお困りでしょうとやってくるんですよ。
 けれどもそういう人達がですよ、ならあるものがある内はよいが、無くなって来るともう見向きもせん様になるのが世の中です。もう一人の方の例をとりました様に、あれ程親切、あれ程人の為に役に立つておられる方が、愈々困り果てておられる時に、誰もあの人と会うたら返って損が行くような顔して、いわゆる顔を背けて通って行くと云う様な、町ですり会うてもそう言う様な世の中である。
 片一方の人はまだ力がある、まだ何かがある、から皆が集まって来とるのを見てから、昨日参って来た人が言うのですよ、こげんして皆が集まって来てはおるばってん、如何にも自分も心配してやりよる様な顔して来てはおるけれども、これが若し無一物的な存在になられたら、この人達も皆はずれて行く人であろうがと思うたとこう言う。お互いが今そうです、未だまだ人がなら集まってもくれる、けどもほんに自分がいよいよ年を取った時です、本当なものを頂かずして年を取って行くならばです。
 もう年を取った時には子供ですらがです、それは厄介もの扱いにしませんでしょうけれども、何とはなしに厄介者扱いにされる様な、これが親子でもです人情紙よりも薄しとでも言うでしょうか、年寄りが何ち言いよるの黙っとかんのと言う事になって来る。お爺ちゃんのおかげでお婆ちゃんのおかげで、この家がある信心がある、お爺ちゃんが一人おって貰うと、どんな心配事でもお爺ちゃんが。
 ああおかげばい、と言えば皆の者が安心が出来れる程しの、お爺ちゃんにならして貰わなければならんのであり、お婆ちゃんにならして貰わねばならんのだと。只お参りをさせて頂いて御教えを沢山頂いて、おかげは頂いておっても、金光大神が教えて下さる、いわゆるぎりぎりのおかげ、いうなら神様から御神徳を受ける事の為の信心修行が出来ていなかったら、私共がこのまま信心の徳も受けずして年を取って行ったら、役に立つ間はお爺ちゃんでしょう、役に立つ間はお婆ちゃんでしょう。
 けども若し、役に立たん様になったら世間からでも、いや自分の血肉を分けた、子や孫からでも、本当に、よい扱いを受ける事が出来ない様な事であっては、その政治家じゃないけれどもです。だから言わば、世間ではね、隠居で隠居と云った様な物がある、その上田地やら、お金やら持っておかなければ、子供でも孫でも、嫁でちゃ本当によう扱かわん、まあだ爺ちゃんがあれを持っちゃるけんで扱いよる。
 いわばその本人に親切をするのでなくて、その人が持っておられる金やら物やらに、親切にするようなことでは、こげんつまらん事はない。その時にひあいを感じても、もう遅いと言う事。だから、この金は死ぬまで放されない、これども放しよると息子どんが、どんなにろくそうにするじゃ分からん。自分にしょるとじゃないね持っておる金にしよる、金も良かろう。けれども金と同時に、自分自身の内容が、周囲の人が、本当に尊い者として見てくれる、尊いものを、頂いておかなければならない。
 その尊いものを頂いてくれよ、と言うのが天地金乃神の願いと同時に、金光大神の願いである。それを天地金乃神から受けられて、それを話にして、残しておくと言う事になるのである。その事を改めて具体的な事に思うて見た。此方の道は喜びに喜んで開けた道じゃ、だから喜びでは苦労はさせんと仰しゃる。果たして喜びに受けて行きよるだろうか、成程その時は喜べないだろう、叩かれれば痛いのである。
 けれども実を言うたら、先日からずっと申しとります様に、一切合切がおかげなんだという事を、先ず自分の心の中に頂いて、叩かれれば痛いけれども、これもおかげであるとしてです、お礼の言えれるところ迄、そこを追求して行くという、信心姿勢を果たして取っておるであろうか。私は自分で思うが、本当にもう最近の様ですと、もうどうでしょうね矢張り、二升位の水分は早く取りよるでしょう。
 とにかく喉が乾いて乾いて仕方がない。けれどもはあ冷たいものと言えば、もう冷蔵庫の中に、氷がちゃんと入れてある、ジュース類もちゃんと入れてある。まあそれを頂く時の美味しさは、乾くものでなけりゃ分かるまい、と思われる程に有り難い。だから私はああ有り難い有り難い、けれどもそういう時にです、若し与えられないとする、その与えられないその事も、おかげであると一っ分からせて貰わねばならん。
 もう喉はひっ切るようにある、けれどもそこに冷たいものも、飲みものもない時でもです、私どもがこれも矢張り一切合切の中にあるのであって、おかげであると分かる事の為に精進しょう云うのである。そうしてです、その喉をからです、それこそ乾いて仕方がない、もう唇は乾いてしまう、口の中はからからに成ってしまう、それでもそれは苦しい。けども、これは矢張りおかげであると分からして貰って、その中から生神金光大神にお縋りする信心姿勢を取らして頂くところからです。
 、次には云うならば無限の供給とでも申しましょうか、どこから湧いて来るか分からん、何処からこのしめりが口の中から出て来るか分からない様に、もうその時は水を飲まんでもよい、水分をとらんでもよい程しのおかげの受けられる事実をね、私どもが体験として作って行かにゃいけん。そこに力が出来る、お徳が受けられる、喉が乾くここに氷水がある、ああ甘露と思うて飲む矢張り極楽、けれども本当の意味に於いての極楽、それこそ地獄の釜のそこで、じだんだ踏むように苦しんでおる。
 然しそことても矢張り、一切合切がおかげの中にあるんだと分からして貰うてです。その力がその地獄の釜の底を踏み抜く程しのおかげを頂いた時に、その底に極楽があると言う極楽をです、頂くそれがお徳なのです。力がある、ここんところが精進なんです。も少し具体的に言うならですね、ここの場合三代金光様から頂いておる、氏子が神様任せなら、神様が氏子任せになると仰せられますからと。
 神様任せになっとらんでも、おかげを受けておる。ですから此処は任せられませんよ、いくら何でもこれだけは先生、あなたが幾ら言いなさったっちゃ聞かれませんよ、と言う様な所ででもです、成程任せる事はきつい事でもあり、苦しい事でもあり、嫌な事であっても、そこを頂き抜かせて頂くところから生まれて来るのが、神様が氏子任せになって来て下さると言うおかげなんです。
 そういうですね。例えばそう云うおかげを頂いて力を受けて行く、徳を受けて行くと言う行き方にならない限りですね、金光大神は、こげんおかげの頂かれる道を教えておるのに、言うことを聞かぬ子は親でも仕方があるまいがと言う事になるのじゃないでしょうかね。此方の道は、喜びに喜んで開けた道じゃから、喜びでは苦労はさせんと仰しゃるのに、半分は喜び、半分は喜ばんと言うなら、もう言う事を聞かん氏子でしょうもん、それは聞かれんです、きついです。
 そのきつい事でも喜べ、だからそこん処を一切合切、喜べない、喜べないけれども、一切合切がおかげであると言うことを、ひとっ分からせて貰うて、そのおかげであると云うところが、その答えが出て来るところまで、有り難いと答えの出て来るところまで、修行させて頂けと言うのである。そういう、信心の力を頂いてこそです、始めて年をとればとる程、人が敬うてくれる様になり、大事に扱うてくれる様になり、もうそれは人ではない、神様が大事に扱うて下さるのです。
 そういう私どもはね、私どもの、人生のまあ人生航路の上にはです、それを気付かない人が沢山ある訳です。さっきの町会議員の方なんかは、まあそこにちょっと悟られた訳です。まあ政治家のように、哀れな末路を辿るものがあり、政治家の、悲哀をそこに感じられた。これはな かしっかりしたものを頂かなければ駄目だぞと、いうならば教会の門をくぐられた訳でございましょう。
 其処からです私ども信心のある者も、金光大神がこうすればおかげになる、こうすれば徳がうけられる、力が受けられると仰しゃると、それは一寸きついからと言うて、なおざりにしておったんでは、神様は言う事を聞かん子は親でも仕方あるまいがと言う事になって来るのではないでしょうか。それをきついけれどもそこん所を本気で行じさせて頂く所にです、親の心にある私どもでは思いもかけなかった道が開けて来る。
 年を取れば取る程いわば一年一年有り難うなって来ると言う信心、その尊い有り難いと言うものには、皆が尊んでくれるだけではない、神様が大事にして下さるという道がある。そういう道をね、私どもは本気で聞かせて頂かんならんのではないでしょうか。昨日、ここで二、三日修行致しとります、四国から来とります、色々な難儀な問題を本人なりに抱えておる訳です。
 私共から見たら一っも難儀と思わんけども、本人はそれを難儀と感じておる。昨日もここへ参りましてから、断食を始めてみたり、又は一晩中寝んで御神前で御祈念をしたりして、見るけれども心が晴れない。とても私では駄目だから、もう一ぺん四国に帰るという。しかも歩いて帰ると言うここから、途中から又もし心がひるがえす何かがあったら、又帰って来ますからと言うから。
 あなたが帰ると言うなら、帰るなと言うても仕方がないからね、と言うてお届けさせて頂いておったがその時に、昨日の晩に御祈念中に夜中に、ここでお広間で頂いた事が、生きても修行死んでも修行と頂いた。もう自分としては死ぬほど苦しいのである。だから死んだらさぞもう、楽になるごとあるけれども、死んでもの修行と言うのはもう永劫である、これはもう救われ様がない、死んでの苦労と言うのは、けれども生きても修行と言う生きての修行はです、絶対お徳が伴うものである。
 生きとる間の修行と言うのは、勿論だからおかげも伴うのである。生きてもの修行、その修行をです、私共は今日の修行の所に頂きますなら、今日の御理解のとこ頂きますならです、本当に喉が乾く事もおかげ一切合切がおかげ、そこに氷の水を頂く事もおかげ、けれども若しそれが万一与えられないならば、与えられない時にそこから、地獄の釜を踏み抜くような勢いで、生きてもの修行の修行させて貰うたらです。それはもう掛け替えのない程しの力と徳を、そこには受ける事が出来るで有ろう。
 そこに至って始めて成程一切合切が、おかげだなと言う事になるんじゃないでしょうか。この御理解二十節をです、私は信心のない者に対する御理解とばかり今まで思うておったけれども、是はそうではない信心を頂いて、それこそ日参り夜参りのおかげを頂いている者の上にでも、言う事を聞かん子は仕方があるまいがと、いわば神様に嘆きを感じさせとる事になる。言う事を聞く気になって、それは生きても修行と言う事にならせて頂いて、成程こういう中にこう言うおかげを受けられると言う体験が。
 そこから始めて一切合切がおかげだなあと実感出来る。そういう体験が積み積まれて行く所から、成程一切のことがおかげである、一切の事が成程有り難い有り難いと受けていかれる事になる。一切の事が神様任せになる事が出来るのである。真実有り難い世の中を、に住む事が出来るのである。真実神様が私ども任せになって下さる、程しのおかげを受けて行くことが出来るのである。
 成程一切合切がおかげであると言う世界。金光教の信心は、生きながら極楽と湯川先生が仰しゃっとられます。そこに私どもは住わせて頂けれる信心、ならばもう愈々、いくら年を取って参りましてもです、もう神様が大事に大事にとり扱うて下さるおかげを受けられましょう、又だからそういうおかげを願いとして、と言う事を目指しとしての信心に、ならして頂かねばならんと思いますね。
   どうぞ。